〽︎ヤレ色の世界に出家を遂げる ヤレヤレヤレ細かにちょぼくれ
愚僧が住家は 京の辰巳の世を宇治山とは 人はいふなり
ちゃちゃくちゃ茶園の はなす濃茶の 縁は橋姫 夕べの口舌の 袖の移り香 花橘の
小島が崎より 一散走りに 走って戻れば 内のかかあが 悋気の角文字 牛も涎を 流るる川瀬の
口説けば内へ 我から焦がるる 蛍を集めて 手管の学問 唐も日本も 廓の恋路が
山吹流しの 水に照りそふ 朝日のお山 誰でも彼でも 二世の契りは 平等院とや さりとはこれは うるせえこんだに
帰命頂礼銅鑼如来 衆生手だての歌念仏
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いよいよ「ちょぼくれ」と言われる件に入ります。ここは『源氏物語』の「宇治十帖」が引用されていて、匂宮と浮舟が小舟で宇治川を渡るとき、中洲の「橘の小島が崎」を眺めて、歌を詠み交しますが、その「橘の小島が崎」を使って浮気心を表しています。
「濃茶」の「濃」=「恋」を掛けています。「橋姫」は、「宇治十帖」の最初の帖の名で、宇治橋の守り神のことです。「縁の端」=出会いの発端みたいなこと。「角文字」とは「い」という平仮名のことで、「角づくし」になっています。「蛍を集め」というのは本を読むための明かりのこと。橘の小島が崎は山吹の花が咲いていて、その山吹色から、黄金、小判のことを連想させ、宇治にある朝日山、そのお山は遊女の掛詞になっています。「二世の契りは平等院」とありますが、遊女は誰にでも等しく契りをかわすという意味のようです。
「奇妙頂礼どら如来」とは願人坊主がよく使うセリフで、どらとは道楽者の意味です。
〽︎浪花江の 片葉の蘆の 結ぼれかかり アレワサ コレワサ 解けてほぐれて合ふことも 待つに甲斐ある ヤンレ夏の雨 やアとこせ
よいやな ありゃありゃ これわいな この何でもせ 住吉も 岸辺の茶屋に腰打ちかけて ヨイヤサ コレワサ
松でつろやれ蛤を 逢うて嬉しきヤンレ夏の月 やアとこせ よいやな ありゃりゃ これはいな この何んでもせ
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「難波江の片葉~」で始まる住吉踊りというのは、大阪住吉神社での御田植行事が俗化した踊りで、終わりは必ず「住吉さまの岸の姫松めでたさよ」で終わります。
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〽︎姉さんおんじょかえ 島田金谷は川の間 旅籠はびたでお定まり お泊りならば泊らんせ お風呂もどんどん沸いてある 障子もこのごろ張り替へた 畳みもこのごろ替へてある お寝間の伽をまけにして 草鞋の紐の仇解けの 結んだ縁の一夜妻 あんまり憎うも あるまいか ても さうだろさうだろさうであろ
〽︎住吉様の岸の姫松めでたさよ いさめのご祈祷 清めのご祈祷 天下泰平国土安泰めでたさよ 来世は生を黒牡丹 己が庵へ 己が庵へ帰り行く
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「姉さん御じょかえ」からの部分は、伊勢音頭と呼ばれるもので、お伊勢参りに向かう旅人に対し、大井川を挟んでの客引き風景です。 「御じょかえ」とは、本気かえ?という意味で、当時の飯盛り女の描写だそうです。姉さんかぶりの踊りとなっています。 曲の最後に「来世は生を黒牡丹」とありますが、黒牡丹とは、牛のことで、女に陥落した僧侶は、来生は牛に生まれ変わるという意味です。 踊りでは、実在の喜撰法師とは、真逆の人物像を描いています。
何とも言えない感じで、洒落のめしていますよね! 江戸ならではの面白みでしょうか。